琉球ガラス村でガラスクラフトを体験

ガラスクラフトの登場

 

 

こうして歴史が始まった琉球ガラスですが、1944年10月10日の米軍による那覇大空襲(第二次世界大戦)で、不幸にも県内のガラス工房の全てが那覇市街と共に全焼してしまったので、今では戦前に作ったガラス製品は殆ど残っていない状態になってしまいました。

 

 

又、戦後間もない頃には、ガラス工房も復活していないので、コーラ瓶の底を切り離してコップとして使うような有様でした。ようやく那覇市でガラス製造が再開されることになっても、戦後の物資不足や新たにプラスティック製品の登場もあって、以前のようにガラス製品が売れない時期も続いたのです。

 

 

こんな琉球ガラスに転機が訪れたのは1950年代後半のことで、当時たくさんいた駐留アメリカ軍やその家族が、カラフルな現物サンプルや写真を工房に持ち込んで、日用の器や本国への土産物用に注文をするようになったのです。これが大量の注文になったので、それに対応するため、軍施設から消費して放棄されたコーラやジュース、ビール、ウイスキーの空き瓶を活用したわけです。

 

 

透明・薄青・茶・緑・黒という5色の色ガラスは、アメリカ的生活様式や用途から、外国の人が好むような装飾的な軍品物が中心のデザインで、更に1960年代にはベトナム戦争景気がそれを後押しし、アメリカ軍人の本国への土産品として注文が殺到するようになりました。

 

 

県内に次々とガラス工房が設立されたのもこの頃です。1972年に沖縄が本土復帰しましたが、「沖縄海洋博覧会」開催を契機に沖縄での観光も本格化するようになり、琉球ガラスも本土からの観光客のお土産品として需要を拡大しました。以後は着色にもいろいろな技法が採り入れられ、原料も廃瓶から原料ガラスへと変化していきました。

 

 

「琉球ガラス工芸協同組合」は1983年に設立され、県内8社の琉球ガラス工房のうち、北部を除く中南部の6社が合併し、共同仕入・共同販売をするようになり、1985年には組合直営の共同生産・販売施設「琉球ガラス村」が糸満市福地にオープンしました。