琉球ガラスの変遷
琉球ガラスは、「宙吹き法」や「型吹き法」による吹きガラス工芸で、4~5人のグループを組んで製作している手作りガラスとなっています。もともと沖縄での吹きガラス製造は、明治時代になってから長崎や大阪から移住してきたガラス職人によって伝えられたとされており、生活用品(薬瓶やランプのほや等)を作ったのが始まりのようです。
第二次大戦後には、駐留アメリカ軍が飲んでいたコーラやビールの色つきガラス瓶を活用して、本来なら不良品の扱いとなる「気泡」や「厚み」が、アメリカナイズされた「個性的でシンプルなデザイン」として評価されたのが発端となり、そこから沖縄独自のガラス文化へと発展していきました。
こうして琉球ガラスは現在では、原料や技法もかなり進化しており、1998年には沖縄県の伝統工芸品にも認定されています。これらは普段の暮らしにも溶け込む身近な芸術品として、愛され続けています。
ちなみに沖縄にガラスが伝わったのは1690年に平田典通が円覚寺の開山和尚像を作った時に、和尚像の義眼にガラス玉を使ったという記録があるので、1600年代だと考えられています。ちなみに「琉球国旧記」の技術の部に1730年代の職種で「焼玉」という職業がありますが、これがガラス職人のことだと考えられています。
明治時代以前では、沖縄で使われていたガラス製品の大半は日本本土からの輸入でまかなわれていましたが、当時の船の揺れで破損が多く、そのため長崎や大阪からガラス職人を呼んだようで、沖縄でのガラス製造が本格的に始まったわけです。当時の原料は一升瓶や醤油瓶などの透明瓶の屑ガラスで、いわゆる生活必需品が沖縄県全域向けに制作されていたのです。